第五話 シンジへの嫉妬

第五話 シンジへの嫉妬


僕は碇シンジ。

だけど今はカラーコンタクトで目を青色に変え、茶色い毛のカツラを被ってドイツ人の青年「ハンス・シュトイベン」という戸籍を持った人になりきっている。
僕の正体が碇シンジだと言う事がばれると、ネルフへ連れ戻されてしまうからだ。
ネルフから離れてドイツで食堂の店主兼看板娘として働いているアスカを追って日本からやって来たのにまた引き離されたくは無い。
僕はアスカにでさえ自分がシンジだと名乗れないのは辛かったけど、それでもアスカの側に居るためには仕方がなかった。
アスカは僕の事を学生だと勝手に思い込んでいたみたいだ。
僕が学生では無い事を知ると……アスカは住み込みで食堂で働かないかと勧めて来たんだ。
その提案に僕は驚いた。
今は食堂の店主のおばさんが入院しているから二人きりで暮らすってことになるんだけど……。
アスカはその事をわかっているのかな?
もしかして、僕にそんな度胸など無いとでも思われているのかな……。
「アンタは信用できるとアタシが思ったからよ」
僕はアスカに会って2週間ほどしか経っていないけどアスカに信頼してもらえたらしい。
こうして雇ってもらった次の日から僕は住み込みで食堂『海猫亭』で働かせてもらう事になった。
「こら、いつまで寝ているの、起きなさい!」
「あ、ごめん、アスカ……さん」
危ない危ない。またアスカを呼び捨てにしそうになっちゃったよ。
心の中ではアスカって呼び捨てにしているんだけど……アスカと呼び捨てで言い合えるのは『シンジ』だけなんだよね……多分。
それにしても、アスカに起こされるなんて思ってもみなかったよ。
ミサトさんと居たころは僕がアスカを起こしていたのに。
アスカは僕を連れて市場へとやって来た。今日の食材を仕入れるためだ。
お店の常連客でもある漁師のサブさんがアスカに話しかけて来た。
「やあ、アスカちゃん。今日は彼氏連れかい?」
「やだなあ、サブさん。コイツは新しく雇ったバイトよ」
アスカとサブさんは日本語で話している。
僕は日本人の碇シンジじゃなくてドイツ人のハンス・シュトイベンとして振る舞うのだから、日本語がわからない振りをしなければならない。
「しかし、今までどんな男の子の誘いも断って来たアスカちゃんがね……」
「あんまりからかわないでくださいよ」
そう言ってアスカは頭にある赤いリボンを触る。
僕がシンジだったとき、アスカが日本を離れる前日にプレゼントしたものだ。
アスカはまだシンジの事を大切に思ってくれているんだね……。
その後青果店や雑貨店で仕入れをして店に戻った。
店に戻ると今度はアスカが僕に食堂のメニューの料理を教える。
僕は配達だけではなく、調理も手伝う事になりそうだ。
アスカから料理を教わるなんて、やっぱり不思議な気分だ。
僕は筋がいいとアスカにお誉めの言葉を頂いた。
こうして、お揃いのエプロンで料理をしていると……なんか新婚さんみたいだね。
でも、そう思っても僕は言う事を許されなかった。
だって従業員にすぎないからね。
しばらくすると僕も店での仕事に慣れて来た。
そして、アスカの代わりにマリアおばさんのお見舞いに行く事も多くなった。
僕は気になっている事をおばさんに聞くことにしたんだ。
「あの、マリアさん。マリアさんが退院したら僕はどうなるんでしょうか?」
マリアさんは驚いた顔をしてから、ニッコリと僕に微笑みかけてくれた。
「ハンス君さえ良ければ、ずっとお店に居て欲しいと思っているわ」
「ありがとうございます」
「アスカはその事を言ってなかったのかしら?」
「いえ、聞かなかった僕も悪かったですから」
マリアさんは僕の言葉に嬉しそうに満足げに頷いた。
でも、目を細めて悲しそうな顔をして僕に話しかけて来たんだ。
「あの子は辛い思い出を背負っているからね……側で支えてあげたいんだよ。でも、あたしはもう長い間一緒に居てやれない。それだけが心残りだよ」
「マリアさん……」
「さらにあの子が好きだった子もこの前交通事故で死んでしまったらしいんだよ」
それは……きっと……僕の事だ。
「あの子は今でもその子のくれたリボンを付けているみたいでねえ……不憫で仕方が無いよ」
「そうですね……」
「だから、私の代わりにとは言わないけど……アスカの事を支えてはくれないかね」
僕は伸ばされたマリアさんの手を握りしめて強くうなづいた。
僕は過去に生きたシンジではなく、今に生きるハンスとしてアスカを愛して支えていこうと決意した。
でも、僕は……シンジを裏切ってハンスを愛するアスカを受け入れられるかどうか、まだ不安だった。
それから何日か経って、マリアさんのお見舞いに行ったアスカの様子が何か変だった。
僕の方を見て何かモジモジしているし、視線を合わせようとしても反らしてしまう。
僕はまたマリアさんのお見舞いに行った時に聞いたんだけど……。
アスカはやっぱりシンジへの思いは捨てられないらしい。
でも、僕を見ているとシンジに似ている気がして気持ちが落ち着かないとか……。
僕を信用して雇ったのもシンジに雰囲気が似ているかららしい。
似ていると言っても……本人なんだけどな。
それを聞いて僕は嬉しいのか悲しいのか複雑な気持ちになった。
僕はアスカと一緒に生活して親しくなった気がするけど、アスカがシンジの面影を求めているだけなのかな?
ハンスと言う人間を見てはくれていないのだろうか?
僕は誰だ? 今の僕は碇シンジじゃない、ハンス・シュトイベンだ。
アスカにいつまでもシンジを見たままでいてもらっても困る。
さらに、僕は別の意味でも困っていた。
アスカと二人きりでいると我慢するのが辛いんだ。
早くマリアさんが退院して来てくれないかな……。
食堂で働きはじめたころは僕の事を妬む男性客も居た。
だけど徐々に僕とアスカはお似合いの二人だって認めてくれるようになった。
でも、アスカはまだ僕の事を名字のシュトイベンかアンタとしか呼んでくれない。
アスカを呼び捨てにすることも許してはくれなかった。
やっぱりアスカの中にはまだシンジが居るのだろうか。
居ても構わないのだけど、アスカには過去と決別してほしい。
そう思った僕は、アスカの心を試してみる事にした。
「アタシにプレゼント?」
「アスカさんにはお世話になっているので」
僕はアスカに赤いリボンをプレゼントしたんだ。
今アスカの髪を束ねているのはシンジが4年前にあげた古い赤いリボン。
僕はアスカが新しいリボンに付け替えてくれることを願ったんだけど……。
アスカは自分の髪型をツインテールに変えて、新しいリボンと古いリボンの両方を頭に付け続けた。
僕はそれをやはり歓喜と落胆の入り混じった気持ちで見詰めるしかなかった。
僕の中でアスカへの欲望はドンドン強くなっていった。
アスカと手を繋ぎたい、アスカとデートをしたい……その他いろいろ。
僕とアスカは毎日仕入れの時は一緒に居るけど、それはデートじゃない。
市場を回るだけじゃなくて恋人たちのように公園を散歩したりしてみたかった。
僕の正体がシンジだと言えれば、願いがかなう日はぐっと近くなれるかもしれない。
しかし、万が一僕の正体がネルフの関係者にばれたら連れ戻されるのは確実。
ミサトさんたちが協力してくれても再びネルフを脱走する事は無理になるかもしれない。
それに、アスカに危害が及ぶことも……父さんならやりかねない。
しばらくまた我慢をする日々が続いた。
でも、僕はある日の夜ついに我慢をすることが出来なくなってしまったんだ。
僕はアスカに近づいて強引に唇を重ねようとした。
だけど、寸でのところで僕はなんとか自分を取り戻してアスカを離した。
アスカはとても驚いた顔をしていた。
僕はアスカにただ謝ることしかできなかった。
そして、アスカに自分の正体がばれない程度にぼかして自分の胸の内を明かしたんだ。
アスカがドイツに飛ばされてからその後の戦いで綾波が死んで一人ぼっちになってしまった事。
それから記憶を失って綾波と同居していた事。
父さんが薬を使ってまで強引に僕と綾波をくっつけようとした事。
僕が苦しむアスカの夢を見た事。
もちろん綾波とかアスカって具体的な名前を言わないで他の人の話だと言う事にして話した。
アスカは僕と綾波が強引にくっつけられそうになった話を真剣に聞いてくれて、怒ってくれたんだ。
そして僕が強引に迫った事も許してくれた。
それでも、その後はしばらく僕の事をちょっと警戒しているようには見えたんだけどね。
でも、僕がアスカの傍に来てから一年が経とうとしたころ、僕はアスカがネルフの制服を着ている人と話す所を見てしまった。
ついにネルフの追跡の魔の手が伸びてきてしまったのか。
今まで見つからなかったのが幸運だったのかもしれない。
アスカに危険が及ぶ前にここから離れよう。
そう決めた僕はその日の夜にアスカに切り出すことにした。
「ここを辞める……なんで?」
僕がここを立ち去ることを話すと、アスカは慌てて泣き出しそうな表情になった。
「やっぱり、アタシがアンタを名前で呼んであげなかったから?」
「いえ、アスカさんがシンジ……さん以外の人を名前で呼ぶのに抵抗があるのは知っています。僕がここを離れなければならないのは別の理由からなんです」
僕はさすがにネルフから追いかけられている事は言えなかったけど、逃亡中の身である事は話した。
「じゃあ……5年。5年経ったらここに戻ってきてくれる? 5年経ってからならほとぼりも覚めていると思うし、アタシもシンジの事を落ち着いて考えられるようになっていると思う」
「でも……そんな約束だなんて」
戸惑う僕の前で、アスカはさらにとんでもない事を言い出したんだ。
「じゃあアタシは5年経ったら、アンタと結婚する。いいわね?」
その日の夜、僕はドキドキしてなかなか眠れなかった。
やっとアスカが僕に振り向いてくれたのに、立ち去らなければならないなんて。
いつの間にか僕は眠り込んでしまったみたいだ。
そして、いよいよアスカとの別れの朝がやって来た……。
僕が自分の上に何かが乗っかっているような息苦しさに目を覚ますと、至近距離にアスカの顔があったんだ。
アスカが僕の上に覆いかぶさって抱きついている。
「おはよう、シンジ」
「おはよう……アスカ……ってえええ!」
アスカは慌てて僕から離れて耳を押さえた。
「もう、いきなり大声を出さないでよ」
「な、なんで僕がシンジだって……?」
おかしい。僕はアスカの前で日本語を話さないようにしたし、カラーコンタクトもカツラもリツコさんの特別製だ。
今まで来たお客さんも僕がドイツ人だと信じて疑わなかった。
変装は完璧だったはずだ。
「まったく、バカシンジなんだから。腕を見てみなさいよ、腕を」
「腕って、あ……もしかして」
僕はアスカからもらった腕時計を片時も離さずに巻いていたんだ。
「アスカは最初から僕がシンジだって気がついていたの?」
「ハンバーグを作ってもらった時、腕時計を見てね。後で細かく確認したらアタシのメッセージが刻まれていたの」
時計を外して見てみると、『LAS』とアルファベットが刻まれていた。
「これって……直鎖アルキルベンゼンスルホン酸の事?」
「バカ、ラブラブアスカシンジの略よ!」
アスカがポケットからペアの対となる腕時計を取り出した。それにもLASと書かれている。
ラブラブ……って僕は顔が真っ赤になるのを感じた。
しかし、次の瞬間僕はこれが最悪の事態になるかもしれないと考えた。
「アスカ、僕がここに居るってネルフにばれたら父さんが……!」
「ああ、その事なら心配いらないわよ」
僕が首をかしげていると、アスカは手紙を取り出した。
差出人はミサトさんからだった。
内容を読んでみると、どうやら綾波が結婚をしたらしいので僕はもうネルフから追いかけられる事は無いようだ。
僕が心から安心してため息をもらしていると、アスカが抱きついて来た。
「さあ、これから結婚の準備で忙しくなるわよ」
「結婚……ってすぐに?」
「そうよ!”アタシ”と”アンタ”で約束したでしょう? これからは夫婦としてラブラブになるんだから!」
「……うん、僕も我慢できなかったよ!」
その日の午前中は食堂は臨時休業となってしまった。
市場に姿を見せなくて心配して様子を見に来てくれたサブさんは仕方が無いなと大笑いしていた。
余談だけどその一週間後ぐらいにサブさんは姿を消したんだ。
彼も北島サブなんて偽名を使って身を隠していたらしい。
……もしかしてサブさんも逃げるのを止めて大切な人の所に戻ったのかな。
入院中のマリアさんも僕がシンジかもしれないって思っていたらしい。
アスカが僕にプレゼントした腕時計の事を知っていたみたいで、病室で握手した時に感づいたらしい。
本当に僕はバカシンジだったんだね。自分に嫉妬してしまっていたし……。
まあ、これからはアスカと一緒に居られるんだからどうでもいいか!
僕がコンタクトとカツラを取って正体を明かしたらお客さんは驚いたけど、シンジとしてみんなに受け入れてもらう事ができた。
マリアさんは僕がネルフにアスカを連れて帰るのか心配したらしいけど、僕はここにアスカと残ると聞いたら涙を流して喜んでくれた。
僕は完全にネルフと決別するつもりで、北条さんの養子になった。
完全に碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーはこの世から姿を消したんだ。
マリアさんは僕たちが結婚して、生まれた子供たちを見届けてから幸せそうに息を引き取った。
『海猫亭』は僕とアスカ、そして常連のお客さんに支えられて今日も元気に営業中。
僕たちやお客さんたちの笑顔で溢れている。

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